大分県日田市豆田町で開催中の『天領日田 おひなまつり』に行ってきた。ひな人形ミュージアム『ひな御殿』には数多くの雛人形(ひなにんぎょう)が飾られていた。

 

木目込み人形で作られた、雛段飾り。最上段が、親王(しんのう)であるお殿様とお姫様。4段目が、三人官女(さんにんかんじょ)。官女とは、宮中の仕える女性。3段目が、五人囃子(ごにんばやし)。楽団で、貴族の師弟に当たる。2段目が、随身(ずいしん)。お殿様と一緒に行動し、護衛する。1段目が仕丁(してい)。親王家の雑用に従事する。

ひな祭り近くなると、母が飾ってくれたのは、ガラスケースに入った木目込み人形の雛人形。メンバーは、五人囃子までだったかな…。

雛人形の歴史は古い。平安時代(794~1119年)、貴族の子女の間で、『ひいな遊び』が流行った。紙や布で作った人形と、御殿や身の回りの道具のおもちゃで遊ぶ。1000年以上前から、ままごと遊びがあったんだねぇ…。ひいな遊びが発展して、ひな祭りへ。

 

この『立ち雛 たちびな』が雛人形の元祖と言われている。なぜ、ひな祭りは3月3日なのか?

古代中国には、『節句 せっく』という年中行事があった。季節の変わり目に、無病息災・豊作・子孫繁栄などを願って、お供え物をしたり、邪気払いを行った。

奈良時代(710~794年)、日本に伝わった。平安時代中期には、日本においても『上巳の節句 じょうしのせっく』が執り行われていた。3月初めの巳の日、紙で作った人形(ひとがた)に自分の災厄を託して、海や川に流す。これが『流しびな』の元祖。

江戸時代(1603~1868年)になると幕府は、数ある節句の中の5つを、武家の公的な式日(祝日)と制定した。1月7日の人日(じんじつ)、3月3日の上巳(じょうし)、5月5日の端午(たんご)、7月7日の七夕(しちせき)、9月9日の重陽(ちょうよう)。

長い年月を経て、『上巳の節句』と『ひいな遊び』、『子供の守り人形を飾る習慣』が結びつき、『ひな祭り』になったらしい。

江戸時代中期から、3月3日に雛人形を飾る『ひな祭り』が定着した。京・江戸・大阪を中心に、『ひな市』が立つようになり、『立ちびな』から『座りびな』へと変わっていった。

 

有職(ゆうそく)びな。ひな祭りは当初、宮中の祭りだった。有職びなは、本物の公家の装束を再現化した特注品。江戸時代中期以降、上層階級に大人気だった。

やがて、ひな祭りは宮中から武家・庶民へ、大都市から地方へ広がっていった。

 

享保(きょうほ)びな。江戸時代の享保年間(1716~1735年)に京都で誕生。女びなは豪華な冠(かんむり)。男びなの冠も金。公家装束から離れた豪華な装束。

 

こちらも享保びな。男びなに比べて…。

 

女びなの袖が長く広い。重そうだねぇ…。袖に描かれた唐獅子(からじし)や鳳凰(ほうおう)は女びなを守るとされた。

 

 

 

古今(こきん)びな。江戸後期の安永年間(1772~1781年)の頃、江戸で誕生。それまで、雛人形と言えば京都製であった。江戸で作られた雛人形は、面長の顔に、はっきりとした目鼻立ち。新型登場で、江戸では大人気となった。

そこで、古今びなを京阪地方でも作るようになる。京阪型の古今びなは、卵型の面長で、引き目・鉤鼻(かぎばな)の柔らかい顔立ち。写真の古今びなは、柔らかい顔立ちだから、京阪型かなぁ…。

江戸型と京阪型では装束の色合いも異なる。地方によって、好みが違うんだなぁ…。

 

古今びなの段飾り、集大成。圧倒されるぅ~!

 

ありゃぁ、斜めに撮っちゃった。御殿びな。

 

江戸を中心に『段飾り』が人気になる一方、上方(かみがた)では『御殿びな』がヒット!

江戸時代、九州の交通の要所とされた大分県日田市。天領(江戸幕府直轄の領地)でもあり、日田市には全国から大名や商人が集まっていた。それらの人々を相手に商いをしていた地元の豪商が、京都や大阪などで買い求めた雛人形が、今でも、日田に数多く残っている。

ひな祭りについて調べていたら深みにはまり、次回のブログは、この続きだよ~ん。福岡県福岡市にある、女性専門鍼灸&パーソナルトレーニング≪レディース鍼灸ことうプラス≫の女性鍼灸師・理学療法士のコトーでした。